鎌倉時代甲斐国の中心地は石和であり、鎌倉と鎌倉街道で結ばれていました。1221年承久の乱の時、武田信光は藤原光親を護送して、鎌倉街道の籠坂峠で斬首し、小笠原長清は権中納言源有雅(ありまさ)を鎌倉街道か河内路で護送し、稲積荘小瀬村で処刑しました。現在でも、甲府市小瀬町の小瀬団地内に富士塚と呼ばれる墓所が残っています。
甲斐国の中世以前の古道は「甲斐の九筋(くすじ)」と呼びました。駿河へ向かうのは4道で、鎌倉街道(御坂路)、鳥坂峠から大石峠を経た若彦路、右左口峠から阿難坂を経る中道往還、富士川沿いの河内路です。武蔵へは2道で、雁坂峠を抜ける秩父往還(雁坂口)、大菩薩峠を抜ける青梅街道(萩原口)です。信濃へは3道で、諏訪へ行く逸見路(諏訪口)、大門峠へ向かう棒道(大門峠口)、信州峠を抜ける穂坂路(川上口)です。以上9道です。戦国期には信濃へは佐久往還(平沢口)、武蔵へは桂川沿いののちの甲州街道ルートも使われました。
【見所】[甲府市の富士塚]
中世の信仰拠点
鎌倉街道のためか、山間の小国でありながら、鎌倉仏教が早くから流入します。臨済宗の栄僧で、1246年に来日し、執権北条時頼の帰依を受け、建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、甲斐に2度(一説には3度)も流され、甲府市の東光寺や韮崎市の永岳寺を創立しています。東光寺の庭園はすばらしいものがあります。