山梨の魅力紹介 1.歴史 D【室町時代】 「下克上の争い」
甲斐源氏の祖義光・義清・清光・信義と一子相伝されていた甲斐源氏の統領は、鎌倉時代になって信義の5男で、源頼朝に信任が厚かった、石和を拠点にしていた武田信光(のぶみつ)に引き継がれました。信光以降、武田家は甲斐だけでなく、安芸国(広島県)の守護も任命されています。武田総領家は安芸に移り、信光の子信政(のぶまさ)、その子信時(のぶとき)、その子時綱(ときつな)、その子信宗(のぶむね)、その子信武(のぶたけ)が代々安芸守護を継ぎます。甲斐守護職は、残った一族である信光の子一条信長(のぶなが)、信光の孫で信政の子政綱(まさつな)、信長の孫一条時信、政綱の曾孫政義(まさよし)に相伝されたのではないかといわれています。鎌倉時代は信光以降石和流武田家が、甲斐守護職を務めたのでした。
【見所】[甲府市の法泉寺][塩山市の向嶽寺][塩山市の恵林寺]
【見所】[大和村の棲雲寺] 信元は、河内領(南部町・身延町)から入り、逸見氏と戦いましたが、甲斐国を制することなく1421年死去します。甲斐守護は信満の嫡男信重に任命されましたが、実際は入国できませんでした。信元の後継は、弟信長の子で信元の養子となったという伊豆千代丸でした。豪勇を誇った信長は、実子伊豆千代丸を助け、逸見氏とたびたび戦い、破りました。しかし、逸見氏は鎌倉府に助けを求め、持氏の救援軍に信長は敗れてしまいます。その間隙をぬって勢力を伸ばしたのが、守護代跡部氏でした。跡部氏は甲斐源氏の小笠原氏の分かれで、信濃佐久郡(長野県佐久市)に本拠があったといいます。 当時全国各地の小領主たちは、集団となって武力行動し、一揆と呼ぼれていました。甲斐には、輪宝一揆と日一揆があり、抗争を繰り広げていました。信長は日一揆と結び、跡部氏は輪宝一揆から支援を受け、1433年荒河で激突し、信長が大敗していまいます。 日一揆の本拠地は、韮崎市穂坂町の中央自動車沿いにあり、現在本丸跡には碑が建っています。 【見所】[韮崎市穂坂町の日ノ出砦] 実権を握った跡部氏は、京の信重を呼びよせます。信重の館跡は、いまの石和町の成就院であり、信重の菩提所にもなっています。国内の抗争はなお収まらず、信重の後継である、嫡男信守(のぶもり)は5年で亡くなり、その子信昌(のぶまさ)がわずか9歳1455年に甲斐守護の地位につきます。信虎の祖父にあたる信昌は59歳で没するまで半世紀に渡り、甲斐国守護を務めます。当初権勢を振るったのが、跡部明海と影家父子でした。しかし、明海死後、武田信昌は跡部影家を西保小野田城(牧丘町)で攻略します。難敵跡部氏を倒したものの、甲斐はまだまだ安定しませんでした。 信昌は長子信縄(のぶつな)より、次子信恵(のぶよし)に目をかけ、内部が分裂状態となり、国人領主層の台頭や隣国の信濃の大井氏、小田原の北条早雲、駿河の今川氏親などの侵入、日照りや大風・大雨・大地震などが起き、飢饉や地下一揆が続発し、混乱状態が続きました。 全国の山伏の組織化に成功した聖護院道興(しょうごいんどうこう)も、1487年甲斐に立ち寄っています。山伏を案内役に立て、修験の拠点などを回っています。岩殿明神・日本三奇橋の猿橋・初狩(以上大月市)・柏尾山(勝沼町大善寺)を経て、石和の花蔵坊(けぞうぼう)につき、武田信昌の祖母の比丘尼の寺(石和町の成就院)で、信昌の接待を受けて、花鳥の里(八代町)から七覚山(中道町円楽寺)へ出て、吉田から武蔵国へ向かった記録が残っています。 【見所】[石和町の成就院] [牧丘町の小野田城][大月市の猿橋]
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