yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  1.歴史 D【室町時代】

「下克上の争い」

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石和流武田家から信武流武田家へ

逸見氏の台頭

守護代跡部氏との抗争

武田信昌の半世紀支配

    甲斐源氏の祖義光・義清・清光・信義と一子相伝されていた甲斐源氏の統領は、鎌倉時代になって信義の5男で、源頼朝に信任が厚かった、石和を拠点にしていた武田信光(のぶみつ)に引き継がれました。信光以降、武田家は甲斐だけでなく、安芸国(広島県)の守護も任命されています。武田総領家は安芸に移り、信光の子信政(のぶまさ)、その子信時(のぶとき)、その子時綱(ときつな)、その子信宗(のぶむね)、その子信武(のぶたけ)が代々安芸守護を継ぎます。甲斐守護職は、残った一族である信光の子一条信長(のぶなが)、信光の孫で信政の子政綱(まさつな)、信長の孫一条時信、政綱の曾孫政義(まさよし)に相伝されたのではないかといわれています。鎌倉時代は信光以降石和流武田家が、甲斐守護職を務めたのでした。

石和流武田家から信武流武田家へ

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向嶽寺と国宝達磨図

   しかし、石和流武田家は政義(まさよし)の代になって、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕と親政、足利尊氏の叛乱と室町幕府の誕生、南北朝時代へと時代が激動するなか、徐々に没落してしまいました。その代わりに甲斐を支配したのが、武田家総領家で安芸守護であった武田信武(のぶたけ)です。信武は、尊氏の片腕として活躍し、武田家中興の祖といわれています。甲府市の緑ヶ丘スポーツ公園の奥にある法泉寺は、彼の開基です。信武の子信成(のぶしげ)、孫信春(のぶはる)が甲斐守護職を継ぎ、南北朝統一の頃には、石和流武田家から信武流武田家へと完全に覇権が移りました。

    1380年武田信成(のぶしけ)を大檀那として、抜隊得勝(ばっすいとくしょう)、大円禅師によって向嶽寺が創建され、たちまち1千人の僧徒が集まったといいます。今でも臨済宗向嶽寺派の本山であります。

   抜隊の師は南朝を支持しており、それに対抗して、足利氏は、同じ年に絶海中律(ぜっかいちゅうしん)を恵林寺の住職として甲斐に入国させました。絶海は13歳で天竜寺の夢窓疎石に師事し、10年間明に渡り修行を行い、天竜寺住持を経て、3年間恵林寺にいました。寺は教えを請う人々で活況を呈したそうです。

   【見所】[甲府市の法泉寺][塩山市の向嶽寺][塩山市の恵林寺]

逸見氏の台頭

   1415年関東管領上杉禅秀は、職を辞し乱を起こし、鎌倉公方足利持氏を追放しました。信春の子で甲斐守護の武田信満(のぶみつ)は禅秀の舅にあたり、乱に加わり、室町幕府の追討を受け、都留郡で防戦をしましたが、1417年2月6日大和村の木賊(とくさ)山で自害しました。いま当地には、臨済宗の棲雲寺があり、信満の墓があります。

   当主を失った甲斐は、鎌倉公方・持氏が幕府に守護職として、親交があった甲斐源氏の一族・逸見有直(へみありなお)を推薦しました。しかし、幕府は鎌倉公方の強大化を恐れ、反逆者信満の弟・信元(のぶもと)を任命します。乱直後の甲斐は、乱に直接参加した信満の子信長(のぶなか)は国外に逃れ、信満の嫡男信重(のぶしげ)、信満の弟信元ともども、高野山で出家してしまいました。甲斐から武田家の勢力は一掃されており、逸見氏が実効支配していました。武田氏は室町幕府と鎌倉府との政治的思惑から守護職の地位は守れましたが、実権を取り戻すことを容易ではありませんでした。

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大和村の木賊山棲雲寺

  【見所】[大和村の棲雲寺]

守護代跡部氏との抗争

   信元は、河内領(南部町・身延町)から入り、逸見氏と戦いましたが、甲斐国を制することなく1421年死去します。甲斐守護は信満の嫡男信重に任命されましたが、実際は入国できませんでした。信元の後継は、弟信長の子で信元の養子となったという伊豆千代丸でした。豪勇を誇った信長は、実子伊豆千代丸を助け、逸見氏とたびたび戦い、破りました。しかし、逸見氏は鎌倉府に助けを求め、持氏の救援軍に信長は敗れてしまいます。その間隙をぬって勢力を伸ばしたのが、守護代跡部氏でした。跡部氏は甲斐源氏の小笠原氏の分かれで、信濃佐久郡(長野県佐久市)に本拠があったといいます。

  当時全国各地の小領主たちは、集団となって武力行動し、一揆と呼ぼれていました。甲斐には、輪宝一揆と日一揆があり、抗争を繰り広げていました。信長は日一揆と結び、跡部氏は輪宝一揆から支援を受け、1433年荒河で激突し、信長が大敗していまいます。 日一揆の本拠地は、韮崎市穂坂町の中央自動車沿いにあり、現在本丸跡には碑が建っています。

【見所】[韮崎市穂坂町の日ノ出砦]

武田信昌の半世紀支配

   実権を握った跡部氏は、京の信重を呼びよせます。信重の館跡は、いまの石和町の成就院であり、信重の菩提所にもなっています。国内の抗争はなお収まらず、信重の後継である、嫡男信守(のぶもり)は5年で亡くなり、その子信昌(のぶまさ)がわずか9歳1455年に甲斐守護の地位につきます。信虎の祖父にあたる信昌は59歳で没するまで半世紀に渡り、甲斐国守護を務めます。当初権勢を振るったのが、跡部明海と影家父子でした。しかし、明海死後、武田信昌は跡部影家を西保小野田城(牧丘町)で攻略します。難敵跡部氏を倒したものの、甲斐はまだまだ安定しませんでした。

   信昌は長子信縄(のぶつな)より、次子信恵(のぶよし)に目をかけ、内部が分裂状態となり、国人領主層の台頭や隣国の信濃の大井氏、小田原の北条早雲、駿河の今川氏親などの侵入、日照りや大風・大雨・大地震などが起き、飢饉や地下一揆が続発し、混乱状態が続きました。

   全国の山伏の組織化に成功した聖護院道興(しょうごいんどうこう)も、1487年甲斐に立ち寄っています。山伏を案内役に立て、修験の拠点などを回っています。岩殿明神・日本三奇橋の猿橋・初狩(以上大月市)・柏尾山(勝沼町大善寺)を経て、石和の花蔵坊(けぞうぼう)につき、武田信昌の祖母の比丘尼の寺(石和町の成就院)で、信昌の接待を受けて、花鳥の里(八代町)から七覚山(中道町円楽寺)へ出て、吉田から武蔵国へ向かった記録が残っています。

【見所】[石和町の成就院] [牧丘町の小野田城][大月市の猿橋]

 

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