山梨の魅力紹介 1.歴史 E【戦国時代】
「武田三代の都」
信虎の甲斐統一
山梨は、地形から大きく東西の2つの地域に分れれます。大菩薩峠から御坂山系を境に、甲府盆地を中心とした国中(くになか)地方と、富士北麓から桂川(相模川)流域の郡内(ぐんない)地方です。さらに、国中地方も、2つに分れ、甲府盆地の狭義国中地方と山梨県南部の富士川流域の河内(かわうち)地方に分れます。それぞれ、地形の違いだけでなく、歴史的にも、戦国時代国中地方を支配したのが甲斐源氏の武田氏(拠点は石和町から甲府市)で、河内地方は武田一族の穴山氏(拠点は身延町下山)、郡内地方は坂東平氏の小山田氏(拠点は都留市)でした。
躑躅か崎館模型(武田神社収蔵) |
1505年信昌、1507年信縄が相次いで没し、その子信直(のちの信虎)がわずか14歳で家督を継ぎます。翌年叔父信恵を破り、都留の小山田氏、河内の穴山氏と戦い、甲斐国の実権を握ります。祖父信昌は、信重の館(石和町の成就院)から、川田へ館を移していました。現在は甲府市川田町381付近で、勤労青年センターと中央本線の間で、ぶどう畑となっています。信虎は、甲斐の支配を確立するために、川田館から1519年躑躅か崎に府中を移しました。信虎・信玄・勝頼の武田三代の拠点となり、現甲府市の発展の基となり、いまは武田神社となっている場所です。 |
信虎は、新府中の骨格、後詰の要害城、前線基地の湯村山城などをつくり、甲斐の支配を固めていきました。しかし、隣国との戦に明け暮れ、傍若無人な性格からか次第に人心を失っていきました。また、嫡男晴信よりも次子信繁(のぶしげ)を立てようとしていました。1541年信濃の遠征から帰ったばかりの信虎は、娘婿である今川義元のもとに向かいます。しかし、信虎は甲斐への帰路を絶たれ、追放されてしまいました。その無血クーデタを実行したのが嫡男晴信でした。信虎はそのまま今川家に養われ、信玄死後の1574年まで生き延びましたが、二度と甲斐へは帰れませんでした。死後、勝頼によって、甲府の大泉寺において葬儀が営まれ、そこが信虎の菩提寺となっています。いまでも、戦場から葬儀にかけつけた勝頼が手を洗った井戸が大泉寺に残されており、境内には江戸時代柳沢氏によって建立された信虎・信玄・勝頼の武田家三代の供養塔があります。
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大泉寺 |
【見所】[甲府市の川田館跡][甲府市の武田三代館跡・武田神社][甲府市の要害城][甲府市の湯村山城][甲府市の大泉寺]
戦国の雄・武田信玄
武田信玄 |
1521年11月3日、父信虎が飯田河原(現県立中央病院西の荒川)で駿河今川氏の福島正成勢と戦っているさなか、要害城に避難していた大井夫人が、武田晴信(信玄)を積翠寺で生みました。いまでも産湯の井戸が残されており、
産湯天神がまつられています。信虎は、夢見山で偵察をしており、眠くなり松の下で休んでいると、夢に人が現れ、信虎の子供(信玄)が今誕生したこと、そしてその子が曽我五郎の生まれかわりであることを告げました。夢見山は、平安時代に甲斐の国の名所として記録され、「都人 おぼつかなしや ゆめやまを みるかひありて 行きかへるらん」の歌が残っています。信虎が城にもどってみると、嫡男が生まれていましたが、何日か経っても右手が開かないので、天桂和尚に相談したところ、和尚はびっくりしたそうです。和尚が富士山麓で仮寝したとき、曽我十郎が現れ、弟五郎が甲斐国主の子供として生まれかわることを告げたというのです。さらに十郎は、和尚に金竜の目貫を渡し、その子供が右手に同じものを握っていると和尚に伝えました。そこで、城の東にある池の水で右手を洗ってみると、手が開いて目貫が出てきました。驚いた信虎は祈願所の夢見山の麓にあった大川寺を大泉寺と改称して天桂和尚を住職に迎え、21日間にわたる法華経の読経を行って祝ったといいます。 |
晴信は、1536年15歳で元服し、三条公頼の娘を妻とします。三条夫人の菩提寺は、円光院です。1559年生母大井夫人の菩提寺である長禅寺で出家し、機山信玄と号します。信玄は53歳で病死するまで、苛酷な戦国時代を生き抜き、甲斐を中心に信濃・駿河・上野・遠江・三河・美濃・飛騨・越中にまたがる一大領国を形成しました。越後の上杉謙信との5度に渡る川中島の戦いは有名ですが、単に軍事衝突の場だけではなく、駿河・相模の3国同盟など外交戦略を駆使して、直接の戦闘以上に有利な立場を確保しました。
【見所】[甲府市の要害城][甲府市の積翠寺][甲府市の夢見山][甲府市の大泉寺][甲府市の円光院][甲府市の長禅寺]
信玄は、戦歴を積んだ騎馬隊を組織し、最大兵力は戦闘騎馬数9,122騎を中核に総数3万3千から5万2千余人といわれています。棒道に代表される軍道を整備し、軍事面に卓抜した力を見せます。そして、それだけでなく、民政面でも、釜無川と御勅使川の水害を制するために設けた将棋頭や信玄堤、家臣団の統制や年貢などの賦課を規定した「甲州法度之次第」(信玄家法)の制定、黒川や中山などの金山開発と甲州金の鋳造、甲州桝を制定するなど度量衡の統一、商工業者の統制を含めた甲府城下町の経営、1558年戦乱の信濃善光寺本尊を甲斐へ移築したり、甲府五山を指定したり神仏に対する信仰心の利用や対策など、際立った成果を示しています。また、個人的には絵や和歌をたしなむなど、教養もありました。1546年積翠寺で和漢連句の会を開催しています。信玄公の活動を支えた家臣団は、武田家滅亡後も徳川幕府に召し抱えられ、金山経営や河川治水などで活躍し、江戸幕府を支えました。 |
甲斐善光寺 |
1572年10月3日信玄は、上洛の夢を実現させるために、2万5千人の精鋭を率いて甲府を発ちます。高遠から伊那谷を下り、遠江に入り、まず二股城(静岡県天竜市)を囲み、2ヶ月ほどで陥落させます。徳川家康のたてこもる浜松城を眼前に進み、三方ケ原において、城を出てきた徳川軍を打ち破ります。刑部(静岡県引佐郡細江町)で年を越し、三河に入って野田城(愛知県新城市)を落としますが、信玄公の病は重く、甲斐への帰国途中4月12日駒場(長野県下伊那郡阿智村)で死去しました。享年53歳でした。
【見所】[小淵沢町の棒道][白根町の将棋塚][竜王町の信玄堤][下部町の中山金山跡・湯之奥金山資料館
][塩山市の黒川金山跡・花魁淵][甲府市の甲斐善光寺][甲府五山]
武田勝頼の悲劇
勝頼(かつより)は信玄の4男であり、諏訪頼重の妹・湖衣姫との子で、1546年誕生しました。1562年母の実家である信州諏訪氏の名跡を継ぎ、高遠城主となります。諏訪氏統領だった諏訪頼重は1542年に信玄に敗れ、東光寺で幽閉され、自刃していました。信玄公の後継者は三条夫人との子・嫡男義信(よしのぶ)でした。しかし、1560年桶狭間で今川義元が織田信長に討ち取られる事態が起きます。信濃方面をほぼ手中にしていた信玄公は、駿河への進出を図る機会と考えましたが、義信と対立します。義信は義元の娘を妻にし、義元の後継者氏真(うじざね)とは義兄弟に当たります。いままで同盟者であった今川氏を、襲おうという父の政略に強く反発したのでした。信玄公は、この事態を、1565年義信の養育係飯富虎昌(おぶとらまさ)の処刑、義信を東光寺へ幽閉することで治めました。義信は2年後東光寺で自害します。信玄公は、戦国時代よくあることとはいえ、実の父と子を自らの手で処分したのでした。武田家の後継は勝頼となりました。
1573年信玄公が死んで27歳で国主となった勝頼は、父の夢を継いで勇猛果敢に美濃を攻略し、信玄でさえ攻略できなかった遠江の高天神城を陥落させ、大いに気を吐きました。しかし、信玄が死んで2年後1575年勝頼は長篠の戦いで、織田徳川連合軍に大敗してしまいます。翌年勝頼は父信玄の遺言通り、4月16日盛大な葬儀を営み、恵林寺に埋葬します。躑躅が崎館の背後にある要害山の大改築を行い、防衛態勢を固めました。武田包囲網を外交戦略で崩し、軍事的にも織田徳川軍に反撃を試みますが、次第に押され、1581年韮崎の七里岩の台地上に新府城の建設を決意し、躑躅が崎館から移転します。1582年義弟木曽義昌が背き、織田徳川軍の甲州侵攻が始まります。
織田信忠は、岐阜を出て、3月2日高遠、3月3日上諏訪、3月7日甲府に入ります。徳川家康は2月18日に浜松を出て、河内路から入り、3月10日に市川、3月11日に甲府に入りました。武田軍は各所で敗退し、3月3日勝頼は自ら新府城に火をかけ、大月市の岩殿城へ退去しようとします。その途中3月11日田野(大和村)で妻北条夫人、嫡男信勝とともに自害し、武田氏は滅びました。勝頼は37歳、妻北条夫人は19歳、嫡男信勝は16歳でした。信玄公死後9年、新府城にはわずか68日しかいませんでした。新府城址には、江戸時代藤武神社が奉られ、周辺は山林となっています。勝頼の冥福を祈願して、徳川家康は大和村に景徳院を建立しました。勝頼の菩提寺は、信武開基の甲府市の法泉寺です。 |
新新府城址 |
織田信長は、3月5日に安土を出て、4月3日に甲府へ到着しました。武田家滅亡後、甲斐を治めたのは、軍功があった、河尻秀隆(かわじりひでたか)でした。武田家の崇敬した寺社を破却したり、武田遺臣を捕らえて殺戮したと伝えられています。一方、徳川家康は武田遺臣をかくまって、慰撫策を展開します。信長が甲府に入ったその日織田軍は恵林寺を焼き討ちします。快川国師は「心頭滅却しれば火自ずから涼し」のことばを残して、焼かれてしまいました。2ヶ月後の6月本能寺の変で信長自身も自害してしまいます。激動する戦国時代の無常を感じます。
【見所】[甲府市の東光寺][韮崎市の新府城址][大和村の景徳院][甲府市の法泉寺][塩山市の恵林寺]
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