山梨の魅力紹介 1.歴史 F【江戸時代】 「柳沢吉保と甲府勤番支配」
1582年3月11日に武田勝頼は大和村田野で自害しました。武田家滅亡後、甲斐を治めたのは、軍功があった、織田家の河尻秀隆(かわじりひでたか)でした。武田家の崇敬した寺社を破却したり、武田遺臣を捕らえて殺戮し、弾圧策を強行します。一方、徳川家康は武田遺臣をかくまったりして、慰撫策を展開します。2ヶ月後の6月本能寺の変で信長が自害すると、6月15日武田遺臣三井弥一郎に率いられた一揆は、甲府市岩窪の河尻館を襲い、河尻を殺害し、遺体を逆さに埋めてしまいます。いまでも「河尻の逆さ塚」として甲府市岩窪町に残っています。 【見所】[甲府市の河尻の逆さ塚]
【見所】[甲府市の甲府城址(舞鶴城公園)][甲府市の一蓮寺][甲府市の光沢寺][甲府市の住吉神社] 1593年朝鮮に出兵していた光泰は陣中で病没し、甲斐には浅野長政(ながまさ)・幸長(よしなが)父子が翌年春、甲府に入城します。光泰の墓は甲斐善光寺にあります。甲府城の普請、朝鮮出兵、一国検地のため、農民への重税となり、さらに干ばつ・水害が重なり、大規模な農民の逃散が置きます。浅野父子は、環住を呼びかけ、荒地開発の奨励などを行いました。甲府築城と並行して、南北2区の城下町の建設も行いました。北は武田時代を活用して、古府中と呼び、南は新府中といいました。東西6条、南北4条に区分けして、11町を置きました。中心部を甲州街道が通っていました。 【見所】[甲府市の甲斐善光寺][甲府市の甲府城址(舞鶴城公園)] 1601年には、再び平岩親吉が甲府城代となり、金山奉行で有名な武田遺臣・大久保長安が検地を行います。長安は1613年に亡くなり、墓は甲府市の尊躰寺にあります。1603年江戸幕府が誕生します。家康の9男義直が城主となります。義直が尾張清洲に移った1607年以降は城番勤務となります。 五街道の一つである甲州街道が開設されたのは、家康が関ヶ原の戦いで覇権を確立した1600年以降とされ、1611年には甲州街道が中山道とつながります。45宿34継ありました。1632年からは茶壷道中が始まりました。幕府が山城国宇治から引用茶を中山道から甲州街道で運び、谷村の勝山城の茶壷蔵に夏貯蔵していたといいます。その他の道としては、6つあります。鎌倉往還は、石和から御坂峠を経て、富士北麓から籠坂峠を越え、須走・小田原に至る道です。中道往還は、甲府城下南隣の遠光寺村に発し、迦葉坂・阿難坂を越えて、精進・本栖湖の間を抜けて、根原(富士宮市)・吉原(富士市)へ達する道です。駿州往還(河内路、身延道)は富士川沿いを走っていました。秩父往還は、笛吹川をさかのぼり、雁坂峠を越えて、武州秩父郡へ通じます。青梅往還は、大菩薩嶺を越え、奥多摩の渓谷を抜け、武州多摩郡へ抜けます。佐久往還は、韮崎から中山道岩村田宿(長野県佐久市)を結びました。 1607年に家康の命を受けた角倉了以が富士川の水路掘削に成功し、始発は富士川三河岸(鰍沢町鰍沢・増穂町青柳・市川大門町黒沢)で、終点は駿州の岩淵河岸(静岡県富士川町)でした。そして、清水湊まで運ばれたそうです。三河岸からは笛吹川上流は石和まで、釜無川上流は韮崎まで、金番船で回送されました。 【見所】[甲府市の尊躰寺][大月市の甲州街道笹子峠][勝沼町の甲州街道勝沼宿跡][都留市の勝山城址][鰍沢町の富士川河岸跡] 二代将軍秀忠の3男忠長のあと、城番支配となり、1661年三代将軍家光の3男綱重(つなしげ)が甲府城主となり、その子綱豊(のちの六代将軍家宣)が継ぎ、甲府家の時代を迎えます。前年甲府は大火にみまわれ、火消人足の制が定められます。半農半商から商業が発達し、1694年には月3回3の日甲府江戸間に三度飛脚が開かれました。1696年には甲府家代官桜井政能が濁川の掘削に着手し、山口粗堂がこれを助けています。1738年には、桜井政能の顕彰碑が蓬沢村庄塚に建てられ、いまでも残っています。 【見所】[甲府市の濁川・桜井塚]
【見所】[甲府市の永慶寺跡・護国神社][甲府市の大泉寺山門][甲斐八景][甲斐八珍果][塩山市の恵林寺] 1724年八代将軍吉宗は柳沢吉里を大和郡山に所替えするよう命じ、それからは幕府直轄地となり、甲府勤番(旗本)支配となります。甲府城に2名の甲府勤番支配とその配下の番士200名が府中を支配し、甲府・石和・市川大門に陣屋が置かれ、谷村には出張所が置かれ、代官が治めました。
1833年長田円右衛門(おさだえんえもん)は、猪狩村の農民で、39歳の時御嶽新道の開削を始め、9年かかって新道が開通しました。名勝御嶽昇仙峡が世に出るようになったのでした。 反面、農村への圧政・重税、天変地異からくる飢饉が重なり、一揆が頻発しました。米倉騒動・大桝事件・郡内騒擾と、時代が下るに従い大規模になります。特に、1836年天保の郡内騒擾は、800人から1日で 2千人に広がり、4日目以降は1万人を越え、甲府盆地全体に広がりました。甲府勤番支配も代官も無力で、一揆の跳梁にまかせられました。幕府支配の崩壊は間近に迫っていました。 【見所】[塩山市の甘草屋敷][甲府市の昇仙峡]
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