yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  1.歴史 F【江戸時代】

「柳沢吉保と甲府勤番支配」

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河尻の逆さ塚
甲府城の建設
城下町の整備
甲州街道と富士川水運
甲府家の支配
柳沢父子の統治
幕府直轄地・甲府勤番支配

河尻の逆さ塚

    1582年3月11日に武田勝頼は大和村田野で自害しました。武田家滅亡後、甲斐を治めたのは、軍功があった、織田家の河尻秀隆(かわじりひでたか)でした。武田家の崇敬した寺社を破却したり、武田遺臣を捕らえて殺戮し、弾圧策を強行します。一方、徳川家康は武田遺臣をかくまったりして、慰撫策を展開します。2ヶ月後の6月本能寺の変で信長が自害すると、6月15日武田遺臣三井弥一郎に率いられた一揆は、甲府市岩窪の河尻館を襲い、河尻を殺害し、遺体を逆さに埋めてしまいます。いまでも「河尻の逆さ塚」として甲府市岩窪町に残っています。

【見所】[甲府市の河尻の逆さ塚]

甲府城の建設 

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  本能寺の変後、甲斐の支配をめぐって、徳川家康と北条氏直が争います。新府城を守る徳川勢2千に対して、北条軍2万が攻めましたが、結果的には、巧妙な慰撫策を展開していた家康が、武田遺臣を掌握して、甲斐を領有します。家康は平岩親吉(ひらいわちかよし)を甲府城代に任命して、統治に当たらせます。家康は、鎌倉時代以来の時宗の名刹一蓮寺のある一条小山に平山城型の新城を建設することを決めて、築城を始めさせます。それが、甲府城です。

   1590年小田原の陣ののち、徳川家康が豊臣秀吉の命により、関東に移されると、甲斐は秀吉配下の加藤光泰(かとうみつやす)が治め、築城工事が引き続き進められました。一蓮寺と一緒に、一蓮寺の門前町(一条町やお湯が湧出していた湯田)、浄土真宗長延寺(現在の光沢寺)、一条の鎮守であった住吉神社が、南の現在地に移されました。甲府城は明治時代に公園として開放され、桜の名所で、現在石垣が直され、公園として再整備されています。

【見所】[甲府市の甲府城址(舞鶴城公園)][甲府市の一蓮寺][甲府市の光沢寺][甲府市の住吉神社]

城下町の整備

    1593年朝鮮に出兵していた光泰は陣中で病没し、甲斐には浅野長政(ながまさ)・幸長(よしなが)父子が翌年春、甲府に入城します。光泰の墓は甲斐善光寺にあります。甲府城の普請、朝鮮出兵、一国検地のため、農民への重税となり、さらに干ばつ・水害が重なり、大規模な農民の逃散が置きます。浅野父子は、環住を呼びかけ、荒地開発の奨励などを行いました。甲府築城と並行して、南北2区の城下町の建設も行いました。北は武田時代を活用して、古府中と呼び、南は新府中といいました。東西6条、南北4条に区分けして、11町を置きました。中心部を甲州街道が通っていました。

【見所】[甲府市の甲斐善光寺][甲府市の甲府城址(舞鶴城公園)]

甲州街道と富士川水運

   1601年には、再び平岩親吉が甲府城代となり、金山奉行で有名な武田遺臣・大久保長安が検地を行います。長安は1613年に亡くなり、墓は甲府市の尊躰寺にあります。1603年江戸幕府が誕生します。家康の9男義直が城主となります。義直が尾張清洲に移った1607年以降は城番勤務となります。

   五街道の一つである甲州街道が開設されたのは、家康が関ヶ原の戦いで覇権を確立した1600年以降とされ、1611年には甲州街道が中山道とつながります。45宿34継ありました。1632年からは茶壷道中が始まりました。幕府が山城国宇治から引用茶を中山道から甲州街道で運び、谷村の勝山城の茶壷蔵に夏貯蔵していたといいます。その他の道としては、6つあります。鎌倉往還は、石和から御坂峠を経て、富士北麓から籠坂峠を越え、須走・小田原に至る道です。中道往還は、甲府城下南隣の遠光寺村に発し、迦葉坂・阿難坂を越えて、精進・本栖湖の間を抜けて、根原(富士宮市)・吉原(富士市)へ達する道です。駿州往還(河内路、身延道)は富士川沿いを走っていました。秩父往還は、笛吹川をさかのぼり、雁坂峠を越えて、武州秩父郡へ通じます。青梅往還は、大菩薩嶺を越え、奥多摩の渓谷を抜け、武州多摩郡へ抜けます。佐久往還は、韮崎から中山道岩村田宿(長野県佐久市)を結びました。

   1607年に家康の命を受けた角倉了以が富士川の水路掘削に成功し、始発は富士川三河岸(鰍沢町鰍沢・増穂町青柳・市川大門町黒沢)で、終点は駿州の岩淵河岸(静岡県富士川町)でした。そして、清水湊まで運ばれたそうです。三河岸からは笛吹川上流は石和まで、釜無川上流は韮崎まで、金番船で回送されました。

【見所】[甲府市の尊躰寺][大月市の甲州街道笹子峠][勝沼町の甲州街道勝沼宿跡][都留市の勝山城址][鰍沢町の富士川河岸跡]

甲府家の支配

   二代将軍秀忠の3男忠長のあと、城番支配となり、1661年三代将軍家光の3男綱重(つなしげ)が甲府城主となり、その子綱豊(のちの六代将軍家宣)が継ぎ、甲府家の時代を迎えます。前年甲府は大火にみまわれ、火消人足の制が定められます。半農半商から商業が発達し、1694年には月3回3の日甲府江戸間に三度飛脚が開かれました。1696年には甲府家代官桜井政能が濁川の掘削に着手し、山口粗堂がこれを助けています。1738年には、桜井政能の顕彰碑が蓬沢村庄塚に建てられ、いまでも残っています。

【見所】[甲府市の濁川・桜井塚]

柳沢父子の統治

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柳沢吉保画像(一蓮寺蔵)

   甲府家のあと、1704年甲府城主となった柳沢吉保(よしやす)から、その子吉里(よしさと)にいたる20年間は、藩政の時代に入ります。吉保は、武田家の流れを汲み、五代将軍綱吉の側用人として権勢を奮いました。家門以外には領有しなかった重要な地甲斐に、吉保の領有が許されたのでした。この時期に、甲府は一新したといいます。城郭の修繕、屋敷や黄檗宗の永慶寺の建立(現在は護国神社が建ち、山門は大泉寺総門として残っています)、市街地の整備と拡張が図られました。甲斐八景をつくったり、甲斐八珍果を制定したり、文化や産業振興に尽力しました。吉保に招かれた荻生徂徠は、城下がよく整備されて、町が賑わっているさまを、江戸と異なることがないと記しています。城下町は、上府中26町、下府中23町がありました。吉保の墓は、恵林寺にあります。

【見所】[甲府市の永慶寺跡・護国神社][甲府市の大泉寺山門][甲斐八景][甲斐八珍果][塩山市の恵林寺]

幕府直轄地・甲府勤番支配

   1724年八代将軍吉宗は柳沢吉里を大和郡山に所替えするよう命じ、それからは幕府直轄地となり、甲府勤番(旗本)支配となります。甲府城に2名の甲府勤番支配とその配下の番士200名が府中を支配し、甲府・石和・市川大門に陣屋が置かれ、谷村には出張所が置かれ、代官が治めました。

  甲府盆地東部は東郡(ひがしこおり)と呼ばれ、養蚕地帯で、絹製糸が特産物でした。勝沼には葡萄や梨が取れ、江戸に運ばれていました。西郡(にしごおり)は、木綿や煙草の生産地でした。河内領の市川大門は紙漉きが知られていました。塩山市の北に当時の民家が残されており、村の役人を務めていた高野家住宅で、薬草の甘草が植えられていたので甘草屋敷と呼ばれています。郡内は、絹や紬が生産され、郡内織と呼ばれ、谷村藩主秋元氏の殖産政策により、江戸へ輸出されていきました。

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甘草屋敷

    1833年長田円右衛門(おさだえんえもん)は、猪狩村の農民で、39歳の時御嶽新道の開削を始め、9年かかって新道が開通しました。名勝御嶽昇仙峡が世に出るようになったのでした。

   反面、農村への圧政・重税、天変地異からくる飢饉が重なり、一揆が頻発しました。米倉騒動・大桝事件・郡内騒擾と、時代が下るに従い大規模になります。特に、1836年天保の郡内騒擾は、800人から1日で 2千人に広がり、4日目以降は1万人を越え、甲府盆地全体に広がりました。甲府勤番支配も代官も無力で、一揆の跳梁にまかせられました。幕府支配の崩壊は間近に迫っていました。

【見所】[塩山市の甘草屋敷][甲府市の昇仙峡]

 

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